『勇気』と『希望』

次の映画のコラムを書き始める前にネットでいろいろと調べていた。

『エリン・ブロコビッチ』に関するものなのだが、全く筆が進まない。

というのも、私は一つ解決をつけなければならない問題があるのだ。

 

というと仰々しいが、それほど大した問題というわけでもない。

今日明日の命に関係がないので、ゆっくり考えてみることを先延ばしにしていたことだ。

 

映画のコラムを読んでいると、時々

「勇気と感動、希望を観客に与える映画」などと書かれている文章に出会う。

 

私も、以前のコラムに、まさにこれをそのまま書いたことがあるので、人のことは言えない。

ただ、やはりどうしてもなにかが引っかかるのだ。

 

女性が主人公の映画は、その主人公が一般には見られない破格の活躍をすると自分もなにかできるような気がする、という効果がある。

実際には、日常生活はそれほど変化はないかもしれず、映画を見終わった後には、いつもの日常、愚痴多き、後ろ向きな日々に戻っていく。

 

「勇気と希望」を与える映画?

 

「勇気」や「希望」は人から与えられるものかどうか、

あるいは、

人に対して与えられるものかどうか、という点である。

 

以前はあまり考えたことがなかった。というのも、私にとって、ある時点からとても耳につく言葉だからだ。

それは、「3・11」と呼ばれる東北の震災、津波以降である。

 

その災害後、プロ野球の試合が行われた時だったかに、野球選手がインタビューで、「地元の皆さんが苦しんでいるこんな時に、野球のゲームなどやっていていいのか、とも考えましたが、皆さんに少しでも、勇気と希望を与えることができたらと思い、試合をすることにしました」。

と言ったのだ。

 

あるいは、「勇気と感動」だったかもしれない。

彼らの考え方や行為はとても人間愛に溢れた素晴らしいものだと思うし、彼らがそれ以外にも実際の寄付や、物資を運ぶ奉仕や、はたまた「炊き出し」なども含めて、多くの愛に基づいた援助を行ったことは、称賛に値する。

 

 

ただ、ただ、一つどうしても引っかかることがあるのだ。

 

ちょっとおかしくないか?

 

「野球の試合」を観ることがなぜ、「勇気や希望」を与えられることになるのか。

そこがわからないのだ。

 

平気で、「勇気をもらいました」という方も言う方だし、

「勇気を与えたい」という方も言う方なのである。

 

疑問を感じないのか。自分の言ってることが、何かおかしいと。

勇気って、そんなに簡単にあげたりもらったりできるものなのか?

 

と、3.11以来そこここで、これらの表現をいとも簡単に口にしている人々を見聞きすると、きっとみんな気持ち悪がっているだろうに、と思っていたが、娘に言ってみると、

「全く感じない」とそっけない。

 

マスコミでもそれに対する意見は見聞きしないなあ、と思っていたら。

 

あったあった!!!いた。

 

昔からの大ファンだった作家佐藤愛子さんが、書いていた。

2008年「読売新聞」に。

 

【感動】手っ取り早い感想

という題で、書かれていた。

さすがに、素晴らしい一刀両断のエッセイ。

 

私が感じていたこととほぼ同じ感想が、様々な流行表現に対して述べられていた。

 

ーーーーーー

「勇気をもらいました」

というのもある。これも私は釈然としない。勇気とはそんなに簡単にもらえるものですかと訊きたくなる。ーーーー    佐藤愛子著より 抜粋

 

以上、

 

ということは?2011年よりも前に、そんな言い方がはやり始めていたんだなあ、と変なところに感激した。

 

私だけが、なにかとんでもなく言葉に対して神経質なのかもしれないなあ、と最近特に思うようになってきているが、いや、そんなことはない。こちらが正常で、多くの人は鈍感で、というだけなのだろうと納得した。

 

もうこれはいい悪いではない。

気持ち悪いのだからしょうがないし、かといっていら立ってもしょうがないのだ。

そもそも、自分で選んで口にしている言葉を、人から指摘されて納得して訂正するくらいの感性を持っていれば、もともと口にはしていないだろうから。

 

時代と共に、人も言葉も変化していく。

これだけは否定できない真実。

 
グロリア斉藤

グロリア斉藤

職業:歌手。
経歴:福岡県生まれ。中学3年の秋から東京在住。マレーシア、タイ在住経験あり。
高校生の頃の希望職業:映画評論。
60代黄昏随筆家。

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